2022年6月26日日曜日

大げさですが・・花川4,000年の歴史

 市民カレッジでは、石狩市の碑を訪ねるシリーズ講座を開いていますが昨日は花川地区の碑を訪ねる講座にスタッフ参加しました。

 先ず今私たちが住む花川地区は4,000年前には海で、札幌との境界あたりには紅葉山砂丘と云う砂丘がありました。砂丘では鮭を獲って暮らす人たちが住みその遺構が出土しています。

 昨日は2,000年前の墓が見つかった場所を巡りました。

 さて、明治になって開拓が始まりましたが、真北へ伸びる防風林(南防風林、原始林を切らずに残した)を境として北は花畔、南は樽川(現在の樽川は手稲線の北側)と呼ばれました。花川と云う地名は、花畔の花、樽川の川を取って付けられています。


 しかしこの地は砂地と泥炭地が入り混じる痩せ地で、耕土を吹き飛ばす強い風もあって耕作には厳しい地でした。

 そこで、牛馬を飼っての堆厩肥の投入、村民契約による防風林の保護が行われました。

 また、町村農場や極東農場(明治乳業の前身)の進出もあって、石狩は酪農業の先進地帯でした。

 ところが如何せん地力のなさから、町村農場は江別に移転、酪農業も限界がありました。

 戦後稲作への本格的転換が計られましたが、当初は砂地での造田は無理だとして国の許可がおりませんでした。

 その後砂地造田の可能性がようやく認められ、今の花川地区は一大米作地となりました。

 ところが、コメ余りの時代がきて米作が厳しくなった頃、札幌の近接地であることから民間や北海道による住宅団地造成が始まり、現在のような住宅地に生まれ変わりました。

 と云うことで、花川地区4,000年の駆け足歴史巡りでした。

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