市民カレッジの講座で大手スーパーの物流センターを見学しましたが、これについては3月に下見をした時に書いたので、物流センターの前に見学した旧町村農場の事を書きます。
町村農場を開設したのは、札幌農学校二期生だった町村金弥の長男敬貴(ひろたか、弟が北海道知事を務めた金吾)です。大正6年に農場が初めて開設されたのが石狩の樽川なので、町村敬貴は私達には馴染みの人物ですが、残念ながら農場は昭和3年に地力が無い石狩から江別の対雁(ついしかり)に移転してしまいました。
旧町村農場を見学して一番驚いたのは、敬貴が堂々たる体躯だった事です。これまで私は顔写真しか見たことがなく、アメリカ帰りと云う事から勝手なイメージを作り上げてなんとなく瀟洒な姿を想像していました。ところが、そんなイメージとはまるで違ってアメリカの農夫然としたいかつい感じだったのでびっくりしました。
アメリカ行きの折使ったと云う鞄も頑丈な物でした。
研修をしていたアメリカのライト牧場では、真面目な仕事振りが認められて婿にと望まれたとか。
土づくり、草づくり、牛づくりをモットーとした敬貴は牛と一緒にいる時が一番好きだったようです。
石狩から江別へ移転する時は石狩の物を利用。木材は馬車で、石材(サイロなど)は石狩川を船で運んだそうです。
石狩から運んだサイロ(右、札幌軟石製)は、江別に移ってからのサイロ(江別煉瓦製)と並んで立っていました。
面白いエピソードがあって、牛乳瓶のマークデザインは、その頃まだ無名で近くの中学校の教師をしていた手島圭三郎さんにただで書いてもらったのだそうです。
ここまで書いて、ふと気が付きました。
石狩の農場の部材をわざわざ江別まで運んだのは、ひょっとしたら創業地の石狩に愛着があったからではないか?
そうでなかったら、経費をかけてまで部材を江別へ運ぶ必要もなかったし、石狩のサイロなど残しておかないはずです。
これまで、地力がない事を合理的に判断して江別へ移転したのだと思い、ちょっぴり石狩が見捨てられたような気持ちを抱かないでもありませんでしたが、案外石狩を去るにあたっては断腸の思いがあったのかもしれません。
町村敬貴が石狩に対してなんらかの思い入れを残していたらしいと云うことがわかっただけでも石狩の住民としてはちょっぴり嬉しい気持ちになりました。