例年9月に石狩市の弁天町、厚田、浜益で行われる三大秋まつりに昨年より9000人も多い10万人が来場したそうです。
特に弁天町の石狩さけまつりは、鮭の漁獲が少なく名物のサケのつかみどりができないのではと心配されていましたが、3,000枚の抽選券が売り切れる盛況だった。
さけまつりはサケのつかみ取りの他に直径1.6mの鍋で作る1杯100円の千人鍋も目玉ですが販売から1時間で完売したそうです。
といっても私は一度も参加したことがありません。来年は、行ってみるかな。
例年9月に石狩市の弁天町、厚田、浜益で行われる三大秋まつりに昨年より9000人も多い10万人が来場したそうです。
特に弁天町の石狩さけまつりは、鮭の漁獲が少なく名物のサケのつかみどりができないのではと心配されていましたが、3,000枚の抽選券が売り切れる盛況だった。
さけまつりはサケのつかみ取りの他に直径1.6mの鍋で作る1杯100円の千人鍋も目玉ですが販売から1時間で完売したそうです。
といっても私は一度も参加したことがありません。来年は、行ってみるかな。
山紫水明という言葉を辞書で引くと「目に映じて山は紫に、澄んだ水ははっきり見えること。山水の美しい景色の形容」(広辞苑)とあります。
しかし「山紫水明」という言葉は元々は限定した時間の景色を言ったのだそうです。
実は「山紫水明」という言葉は中国の言葉ではなく江戸時代に頼山陽が京都東山の紫色と鴨川の清らかなことをほめて言ったもの。山陽は友人達に宛てた手紙で「山紫水明」という言葉を使っているが、いずれも夕刻時の景色を指している。
ですから、「山紫水明」という言葉は一般的な景色の形容ではなく夕刻時の景色を言い表したもの。
日は傾いて東山の山肌はすでに紫色に翳っているが、鴨川の川面は夕陽の照り返しでまだ明るい、頃の景色を言っている。
では、それが何時頃から今のような一般的な風光明媚な意味に使われるようになったのか?
大正4~8年刊行の「大日本国語辞典」ではすでに一般的な意味として説明されているそうです。
結論はこんなことのようです。
【山紫水明】
①日が傾いて山肌が紫色に見え、水面が夕陽の照り返しで明るい夕暮れ時の美しい景色。頼山陽の造語。山陽は東山と鴨川を望む書斎を「山紫水明処」と名付けた。②①の原義から転じて、時間帯を限定しない山水の風光明媚なことの形容。
※岩波新書 揖斐 高著「江戸漢詩の情景」より。
ラジオ番組でこういう質問を扱っていました。
「私は離婚したシングルマザーですが、アンケートなどで配偶者を問う、未婚、既婚の欄にはどう答えれば良いのでしょうか?」
試しに手元の広辞苑を引いてみると・・
未婚―まだ結婚していないこと
既婚―すでに結婚していること
とあって、どちらもシングルマザーさんにはあてはまりません。
しかしこの広辞苑は1998(平成10)年発行の古いものです。
番組では、新しい辞書では未婚の項に結婚しない形式を選ぶことという文言が追加されており、既婚の項には結婚の経験があることが追加されていると紹介されていました。
これなら、シングルマザーさんは、既婚の欄にチェックを入れれば良いことになります。
言葉の意味も世相の変化で変わっていくようです。
日本ハムファイターズが2位でCSに進出することが決まりました。
2年連続最下位からの上昇、ようやくというところですが、一体何が良かったのでしょうか。
私は、監督が奇をてらったことをせずまともな作戦を取るようになったのが大きいと思います。その証拠に、昨年リーグ5位だった犠打数が今年はリーグ2位です。
もうひとつは、伊藤大海投手でしょうね。伊藤という投手は,これまでの3年間10勝9敗、10勝9敗、7勝10敗と貯金を作れない投手でしたが、今年は14勝4敗と10個も貯金ができています。
後半戦は、清宮選手とレイエス選手の働きでしょうね。
半面、万波選手が去年より退歩しているのと、野村選手が1軍で活躍できないのが今後に向けての課題でしょう。
いずれにしろCSでは頑張ってもらいたいものです。
テレビでエルガーのチェロ協奏曲のことを取り上げていたので、聴いてみたらなかなか好い曲でした。
エルガーと聞いて思い浮かぶのは、イギリスの第2の国歌とも呼ばれる「威風堂々」や「愛のあいさつ」ですが、チェロ協奏曲にはそれらの堂々としたところや甘い感じは少しもありません。
チェロ協奏曲を作曲していた頃、エルガーは体調をくずし精神的にも不安定だったようです。
またこの曲が知られるようになったのは、ジャクリーヌ・デゥ・プリというチェロの名手が盛んに弾いて紹介したからだそうです。
夜中にひとりでじっくりと聴ききたい曲です。
国内最大のサンマ水揚げ拠点の花咲港で25日に950トンのサンマが水揚げされたそうです。
これは、2019年の1,184トンにつぐもの。海水温が下がって漁場に魚群が集まったため。
我が家の食卓にもさっそくサンマが現れました。
ただ、手放しで喜べるほどではなく、基本的に資源不足は否めないそうです。
かっての毎日のように庶民の口に入る状況ではないようです。
洞爺丸事故が起きたのは、70年前の今日だそうです。
実は、この事故については記憶があります。
といっても、事故を目撃したとかいうのではありません。第一当時私は長崎県佐世保市の小学生でした。
それなのにどうして記憶に残っているかというと、事故の翌朝担任の先生がこんな大事故が起きた、と話してくれたからです。
ただ、津軽海峡も知らない小学生(日本地図は頭に入っていましたが、その地図は青森県まででした)は、どこか他所の事として聞いていました。それが後々まで記憶に残ったのは、大変な事故が起きた(使者1430人でタイタニック号に次ぐ世界第2の海難事故)という先生の気持ちが伝わったのでしょうね。
ちなみに、北海道に初めて渡るために連絡船に乗ったのは昭和38年の3月、事故から9年後です。細い階段を下りて船底の畳部屋で休む形式だったので、こんな所では沈没したら逃れられないな、と思ったのを覚えています。